2013年12月18日水曜日

伊東宏さんが逝去、合掌

群馬の小出です。
突然とも言える伊東宏さんの逝去の報に驚いております。
伊東さんは松涛のHPの常連で開くたびに楽しませていただいておりました。
早いご逝去、なんとも残念です。
歳とはいえ、仲間が居なくなるということはとても寂しいことです。
心からご冥福をお祈りいたします。  合掌

木下さん、ご連絡ありがとうございました。
しばらく、音沙汰無次郎ですみませんでした。
小生は、相変わらずNHK前橋局で、毎日ではありませんが、泊まり勤務の
ニュースデスクを続けております。
今年はついに煌耀(後期)高齢者の仲間入りをしました。
仕事以外は、これも相も変わらず、お隣の中国大陸の奥地、辺境に通い
チョウチョを追いかけて放浪の旅を続けています。中国通いも25年を越えてしまいました。
まだまだ、中国通いは続けるつもりです。
住まいのある沼田は今朝は雪降り、これからが冬将軍、本番です。
会員の皆様、健康に留意されよいお年をお迎え下さい。
   小出 雄一コト 超級大老爺

2013年12月17日火曜日

伊東宏さんの逝去、残念です

木下様

近藤義輔です。
最近ブログを訪れていませんでした。
あらためてのお知らせありがとうございます。

伊東さんはつい先ごろまで引き続き投稿されていたのですね。
数々の投稿の中には、興味をそそられる文章もあった筈ですが、
コメントすることもなく過ごしてしまったことを、聊か悔んで
おります。
と言いますのも数年前、僕の投稿のある部分を彼が敷衍して
直ぐに文章を寄せてくれたことがあったからです。
遠い地から(ネットの世界では死語ですが)健筆(?)を揮って
くれた、わがブログにとって極めて貴重な寄稿者を失ったことは
本当に残念です。
心よりご冥福をお祈りいたします。  合掌

近藤義輔

伊東宏さんの逝去について

前略

 ご無沙汰しています,伊東さん残念です、私は一度もクラスが一緒になったことないので知らないのですが、同期の方が亡くなるのは本当に残念です、先日中学の仲間8人と、小林幹育宅で忘年会をして皆で長生きしなければと話したばかりです。この8人は小出さんのお世話で中国に行った仲間年2回ほど集まって呑み会しています。みんな元気です。

佐内資子

伊東静子様への提案

伊東静子様

 ご主人とメールアドレスを共有されていたというのは、大変心温まるいい話ですね。お互いに信頼し合っていたことがよく分かります。

 そのアドレスをずっと保持して、奥さまが引き続き「松濤中学4回生のためのホームページ/ブログ」の仲間になってほしいと思います。これは私の独断できめた提案ですが、異論をはさむ人はいないと思いますよ。

 我々のホームページはあまり細かいことにこだわりません。過去には、数多く部外者の投稿を受け入れています。松濤の出身者ではなく大向小学校の時のつながりで投稿してきた人、行方不明の親を捜したいということで息子さんが投稿してきたり、本人はパソコンを使わないからと奥さまが投稿してきたこともありました。

 今はその余裕がないかもしれませんが、落ち着いて気が向いたら是非投稿してください。
我々のホームページ/ブログには伊東さんの投稿が沢山あります。ホームページ上の「会員近況報告」欄に年度ごとに分けて保存されています。ブログに移行してからは、投稿が少なくなりましたが伊東さんがずっと盛り上げてきてくれました。感謝しています。

サイトマップの場所
http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/shotou4sitemap.htm

松濤中学4回生のためのホームページ

木下恂

2013年12月16日月曜日

さよなら宏さん 2

木下様

メール有難うございました。

ここに住んでいる日本人夫妻が主人と私がメールアドレスを共有していると知っ
てびっくりしていましたが本当にそうなのです。ですから主人と木下様 との交
流メールを私も楽しんでいました。

無邪気な少年時代、両親の離婚で苦しんだ高校時代、勉強に励んだ大学生時代な
どそれぞれに思い出が多く、それらの殆どを私に話してくれましたし、 私はそ
んな話が聞きたい人の方なので楽しみ?にしていました。

それがぷっつり消えて残念です。

木下様がいろいろお骨折りくださり情報を伝達なさっているのはなかなか出来な
い事です。どうか皆様の為にこれからもがんばってください。

伊東静子

2013年12月15日日曜日

さよなら宏さん

木下様

伊東宏の家内静子です。

主人は11月30日急死いたしました。

生前のご交流大変有難うございました。

木下様はじめ皆様のご健康ご多幸をお祈り申上げます。

伊東静子

2013年11月1日金曜日

川上一塁手の守備力  木下恂

 元巨人軍監督の川上哲治氏が亡くなった。
 現役選手の時代には“赤バットの川上”と“青バットの大下”と並び称されて、大下選手とともに野球ファンの人気を二分していたものである。
 しかし色々な論評を見ていると打者としての川上、監督としての川上の話は多く出てくるが、一塁手としての守備の話はまるで出てこない。何故か? それは川上一塁手の守備が恐ろしく下手だったからである。

 野手がボールを一塁に投げるとき、川上一塁手のグラブにスッポリと納まるようなストライクでないと川上御大から睨まれることになる。ショートバウンドするようなボールを投げたりしたらそれこそ一大事である。しかし高い球ならそれほど睨まれることはなかったようだ。普通、高い球ならベースから足を離してでもジャンプしたりして捕球しようとするものであるが、川上選手は決してそのようなことはしなかった。ボールが一塁ベース近くに届く前に彼はクルリとボールに背を向け、ボールが転がるであろう方角に向けて一目散に走り出すのであった。本来、そちらの方は捕手がバックアップにまわることになっているから、一塁手の務めはボールをとにかく止めて打者の進塁を防ぐ努力をすべきなのである。しかし彼はそれをしなかったのだ。

 川上選手の動作を遠くから見ていると一塁手にはとても取れないような大暴投だったように見える。それが彼の狙いなのだ。ジャンプして取り損ねたりエラーする危険を冒すよりもボールを投げた野手の責任にしてしまった方が面倒がない。16の背番号を揺らしながら、そして少し“がに股”でボールを追いかけようとする後ろ姿がTV画面に映ると、私は「あっ! またやっている」と思ったものである。しかしTVの解説者は決してそのことに触れようとはしなかった。

 熱心な巨人ファンがこれを読んだら憤慨するに違いない。野球の神様に向かって何と言うことを言うのか! と。最悪の場合、名誉棄損あるいは侮辱罪で訴えられるかもしれない。

 名誉毀損は、刑法230条1項「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮亦は50万円以下の罰金に処する」と定めているから、事実を述べていても罰せられるのである。刑法231条の侮辱罪にあたる可能性もある。

 もし訴えられたら、誰かに“アンチ巨人”の有能な弁護士を紹介してもらいたいものである。誰か高校時代の友人にいないであろうか。
 最悪の場合には亡命も考えておくべきであろう。それには、中学時代の同級生の 伊東宏氏に頼んでオーストラリア政府に亡命申請してもらおうかと考えている。

木下 恂

2013年10月25日金曜日

ラジオ

皆様、また伊東(望月)宏です。まだ生きております。そして毎日仕事もしてい
ます。私の仕事は殆どが電話で、相手がみえません。そこで昭和27 年~30
年の松濤時代をまた思い出しています。そのころはテレビがなく、相撲でも野球
でもなんでも、すべてラジオでした。流行歌などもすべてラジ オからでした。
また海外、特にアメリカのポピュラー音楽の番組に、S版アワーなどと言うのが
あり、「ブルーカナリア」そして「ウーッ!」の「マン ボNo 5」なんかを聞き
ました。二年生の終わりごろから、何かの拍子で毎朝8時5分からやっていた、
村田武雄さんのNHK「音楽の泉」を登校前に聞くようにな り、クラシック音楽が
好きになりました。今ではユーチューブで当時聞いたどんな音楽も聞けます。ま
た、音楽評論家の門馬直衛さんの「音楽話の屑 篭」も聞きました。そのテーマ
音楽。モーツアルトの「バスーンとチェロのソナタ」を今ユーチューブで懐かし
く聴いたところです。

2013年10月8日火曜日

三年F組

もうすぐ4時半で仕事もソロそれ来ませんから、日課の散歩に行く前、私の担任
だった佐々木先生の、3年F組の卒業写真を見ています。松濤時代の思 い出が際
限もなく沸いてきます。そして先ず思い出すのは、一番上段の立花、坂庭、鈴
井、石川、沢登、松下の諸君です。石川君の一家のお店は私の家 から渋谷に向
かって行った左側にあり、そこで抽選つきの紅梅キャラメルなどを買いました。
立花、坂庭、鈴井の諸君は、当時すでに今の私より遥かに 大人で、しっかりし
た人物であったという気がします。沢登君は落語が趣味で、彼とよく「饅頭恐
い」などの話をしました。松下君は大変な秀才だった という記憶があります。
彼は卒業を待たず、家族の都合で名古屋かどこかの学校に転学されました。その
消息は友達から聞きました。私のとなりの吉塚 くんは、漫画「チビマルコちゃ
ん」の花輪君のような子でした。ハンサムで家が裕福で、確か絵か音楽か英語を
習っていたと思います。渋谷の世田谷よ りのところに、ご家族が薫風泉という
銭湯を経営していました。

伊東宏

2013年10月7日月曜日

「アイソン彗星記念コンサート」の御案内

山下健二さんから掲記の案内がありました。
ロイヤルナイツの男性コーラスによる星の歌、ロシアの歌などが楽しめます。

 ご承知の通り山下さんはロイヤルナイツの一員です。

 伊東さんの投稿が切っ掛けとなり、再び交流が始まるとよいですね。

ページ管理者(木下恂) 

「アイソン彗星記念コンサート」
日時:2013-11-8 17:00(開演 18:00)
チケット: \3,500
場所:駿台学園プライマスメモリアルホール

2013年10月6日日曜日

相撲とテレビ

松濤時代を振り返ると、当時はまだテレビが普及していなく、相撲はラジオ放送
で聞きました。私も友達の筒井君などの影響で、相撲のラジオ放送をよ く聞き
ました。そのころは千代の山、鏡里、吉葉山、朝汐が横綱でした。その次に若乃
花、栃錦のいわゆる栃若時代が来ましたが、その時はもう高校生 で、白黒のテ
レビが普及していました。その後の柏戸、大鵬の柏鵬時代は、私の大学時代でし
た。そして、柏戸は私より1歳年上、大鵬は4歳年下でし た。相撲以外では、
私と実質1歳しか違わない美空ひばりは、松濤時代もうデビュー、活躍していま
した。石原裕次郎は5歳ほど年上でした。御両名と も52歳で亡くなりまし
た。今ではユーチューブのお陰で、当時の映像を自由自在に見られます。

伊東宏

2013年9月23日月曜日

滝沢先生

私達の時、都立高校に入るアチーブメントテストに英語はありませんでした。それで松濤でも英語の先生は教えにくかったと思います。私は松濤の3年 間を通じて滝沢先生に教わりました。教科書は「ジャック アンド べティ」でした。そして、各学年の終わりには、各巻の終わりのレッスンをやり残 して、次の年には新しい本に進んだと思います。滝沢先生は「高校に入ったら英語が一番大事になるから、しっかり勉強しなさい」とおっしゃいまし た。

高校に入って面食らったのは、一年生のとき、戦前文理大で指導したハロルドパーマー先生の弟子が、パーマー流のオーラルメソッドで教えたことで す。これは私には効果がなく、恐怖以外の何者でもありませんでした。しかし2年になると文法訳読式になり、私はホッとしました。当時は理工ブーム で、何が何でもどこかの工学部に入ろうと必死で、英語は一年の最初の教材から勉強し直しました。

次にオーラルメソッドに出くわしたのは、慶応英文科の大学院の時、選択で国際センターの「日本語教授法」を履修した時です。そこでは戦時中、日本 占領下の日本語教育の、パーマー、長沼直兄の伝統が固守されていて、オーラルメソッド一辺倒でした。豪州でこれで日本語をならったシーク族のイン ド人などに会いました。しかし十年後、国際センターを訪れると、この方針は放棄されていました。

英語教授法にも幾多の変遷がありました。私が教えた中学、高校では大金をかけてランゲージラボをつくりましたが、10年後には殆ど廃止され、普通 の教室になっていました。

日本では今でも、「小学生英語」など、英語教育問題が未解決のまま論議されているようです。

伊東(望月)宏

2013年9月21日土曜日

伊東宏 さんが投稿「伊東(望月)宏さんの投稿「言語感覚」に、匿名氏からコメントがありました」にコメントを書き込みました。

伊東宏 さんが投稿「伊東(望月)宏さんの投稿「言語感覚」に、匿名氏からコメントがありました」にコメントを書き込みました。

私は早稲田の応用化学を落ちて数学科に回され、叔母の勧めで慶応で英文学を専攻しました。その結果、日本では英語の教師、そして豪州で日本語教師をすることになりました。語学の才能があるわけでは全くなく、「豪州に住んだら英語が話せる様になる」という、「エエ格好シイ」の迷信から、誰も応募しなかった職に飛びついたわけです。慶応の大学院の先生や、高校や一時勤めた旅行社の同僚の話から、「英語国に住んだら英語が出来るようになる」というのはどうもウソくさいとは感じていました。でも「豪州に2〜3年住んで英語が流暢になったら、日本に帰って来て、『見事な技で』皆の鼻を開かせてやろう」という魂胆で行ったものですから、一生ここに住まなくてはならないハメになってしまいました。

50年前を振り返ってみて思い出すのは、国立駅のそばで塾を経営していた外語大中退の人など、日本を一歩も出ていないのに、ここに40年も住んだ私の100倍も英語が出来る人が当時私の知っている限りでも、大勢いました。

伊東(望月)宏



投稿者: 伊東宏 、ブログ名: 松濤4(自由投稿欄)、日付: 2013年9月20日 18:01

2013年9月19日木曜日

伊東(望月)宏さんの投稿「言語感覚」に、匿名氏からコメントがありました

匿名 さんが投稿「言語感覚」にコメントを書き込みました。

What's up, I check your blog like every week. Your writing style is witty,
keep up the good work!

my web-site; garden clearances

投稿者: 匿名 、ブログ名: 松濤4(自由投稿欄)、日付: 2013年9月19日 7:14

2013年1月17日木曜日

言語感覚

 こないだ久しぶりに投稿いたしました伊東(望月)です。

 最近は齢をとり、やたらと昔の事を考えます。私は都立高校に進学しましたが、結局は父親や 親戚の多くが行った慶応に進みました。松濤中学から慶応高校に進学した人には、松濤中学の近くにお家があった、楠見君がいたと思います。そしてその頃、母親や叔母から、東京の下町言葉の影響を受けた「慶応言葉」について聞かされました。それは「それを聞いてやっこさん、エレえ喜んで、ノコ ノコやって来やがんのサ」などというものでした。この東京弁の特色を、ずっと以前主題にした、「エリーゼのために」という投稿をしました。

 ところで、私の友達の豪州人で、日本が好きで日本語を勉強し、観光で日本にもよく行く人がいますが、彼は鎌倉にも行き、長谷の大仏も見ています。そして、「自分の息子「デーヴィッド」は大仏だ」と言いました。これを聞いて私は、東京の下町言葉と豪州の英語は、この点で反対の方向性があると思いました。即ち東京弁ではアイ>エー、豪州弁ではエー>アイだと言うことです。ちなみに30年ほど前、ここに日本から樫本先生という英語の先生が一 年間、交換教師で日本語を教えにきましたが、この豪州人の友達は、「樫本はノートルダムのせむし男だ」と言いました。

伊東(望月)宏