私は早稲田の応用科学を落ちて数学科に回され、叔母の勧めで慶応で英文学を専攻しました。その結果、日本では英語の教師、そして豪州で日本語教師をすることになりました。語学の才能があるわけでは全くなく、「豪州に住んだら英語が話せる様になる」という、「エエ格好シイ」の迷信から、誰も応募しなかった職に飛びついたわけです。慶応の大学院の先生や、高校や一時勤めた旅行社の同僚の話から、「英語国に住んだら英語が出来るようになる」というのはどうもウソくさいとは感じていました。でも「豪州に2~3年住んで英語が流暢になったら、日本に帰って来て、『見事な技で』皆の鼻を開かせてやろう」という魂胆で行ったものですから、一生ここに住まなくてはならないハメになってしまいました。50年前を振り返ってみて思い出すのは、国立駅のそばで塾を経営していた外語大中退の人など、日本を一歩も出ていないのに、ここに40年も住んだ私の100倍も英語が出来る人が当時私の知っている限りでも、大勢いました。伊東(望月)宏
私は早稲田の応用科学を落ちて数学科に回され、叔母の勧めで慶応で英文学を専攻しました。その結果、日本では英語の教師、そして豪州で日本語教師をすることになりました。語学の才能があるわけでは全くなく、「豪州に住んだら英語が話せる様になる」という、「エエ格好シイ」の迷信から、誰も応募しなかった職に飛びついたわけです。慶応の大学院の先生や、高校や一時勤めた旅行社の同僚の話から、「英語国に住んだら英語が出来るようになる」というのはどうもウソくさいとは感じていました。でも「豪州に2~3年住んで英語が流暢になったら、日本に帰って来て、『見事な技で』皆の鼻を開かせてやろう」という魂胆で行ったものですから、一生ここに住まなくてはならないハメになってしまいました。
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伊東(望月)宏