日本を離れて40年近くたちますが、ますます日本人になっています。私の感覚は小学校、中学校のときに培われたものを今でも一歩もでていません。その証拠として、インターネットで一寸した流行語などを見ても、その意味が即座に推察できます。一例は「卓袱台返し」のコンテストがあったという記事を見たとき、すぐに一昔前もらった週刊誌に出ていた漫画の主人公を思い出しました。やくざな男で、気が短く、「デェェーイ!」と食卓をひっくり返す。
また、ここのニュースなどで西欧諸国などの話も理解できるのは、小学校や、松涛中学の授業で日本語で習ったことに殆ど依存しています。
以上のことは、私が日本にいたときとは比べ物にならない、今の日本人の英語にたいするこだわりの是非を論じるとき、考慮すべき点ではないかと思います。
最近では、多くの若者が多額の費用を厭わず語学留学やワーホリで豪州に来たり、子供をここの小学校や中学に通わせるため、母親が夫を日本に残し保護者として来ている例が沢山あります。
松涛中学の時、英語は都立高校の入試科目でさえありませんでした。
しかし、人口一億を超える日本にとって、英語とはこのような犠牲を払うに値するものなのでしょうか。
私は人生の半分を日本、半分を豪州ですごしました。そして、日本で英語を勉強していたときに信じていたことが、ここに来て全く間違っていたと感じたことや、小学校英語論議を始め今の日本の英語教育論争について、思うことが多々あります。こんなことに興味があるかたが卒業生のなかにおられるかどうか、わかりませんが。
伊東宏