2017年1月31日火曜日

同窓会の記録(1955,1956 の同窓会)

松涛中同窓会の記録

松涛中同窓会の記録

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1955年
女子のみ(最初の同窓会)
1955年
男子のみ(最初の同窓会)
1956年(二度目の同窓会)


2017年1月25日水曜日

卒業アルバム(先生方、卒業生全員の写真)

松涛中学校30年卒業アルバムから

松涛中学校30年卒業アルバムから

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(名前の公表を望まない人は申し出てください)


allstaff
全職員の皆様

allteachers
三年担当の先生方

NA
A組

NB
B組

NC
C組

ND
D組

NE
E組

NF
F組


2015年6月4日木曜日

若井田先生の名前が懐かしく

いつも木下さんからはブログを頂戴しながら自身で書くのははじめてです。ここ25年ほど京都府宇治市主催の「紫式部女流文学賞」の選考の下読みをして、毎年前年の推薦されてくる女流文学者の作品を平均60点ほど読んでいます。もちろんそのような作業は私の本業ではないのですが、市民文化賞の選考委員長を頼まれている関係もあり、読むのがつらくなったら即刻やめようと思いつつ、結局本年が25回目になりました。本を読むことの楽しさは、私は中学の時に若井田先生以下当時の国語の先生方から教えられたのだと思います。もちろん90歳を過ぎた佐藤愛子の「晩鐘」や流行作家宮部みゆきの「荒神」など、われわれの年代でもよくわかる作品も多くありますが、半分以上 は芥川賞作家など若い人の作品で、私の常識とは違う言葉遣いや表現がまかり通っており、若干の違和感もあります。しかし、時代は変化するのですね。私より若いしかし定年間近の大学の先生方5名と、5冊ほどを選んで、最終選考者(川上ひろみなどの文学者で最近までは瀬戸内寂聴・梅原猛など)にまわしましたが、私などこの文学作品を読むという行為で、時代の変化を感じ、それなりに受け入れております。本業の方は昨年と今年で、20年ほど続けた二つの学会の代表を若い人に譲って(といっても二人とも定年で名誉教授になった人で、若いとは言えないのですが)、一研究者として暮らしています。私が専門とした道は大学で見つけたものですが、やはり方向性の基本は、中学の先生方による影響が 大 きかったものと思っています。
 ただ、中学生時代の友人たちは、それぞれ方向性が違うので結局昔話しかできないような気がして、集まりの会などに出ることが躊躇われます。ただしこのブログは拝見しています。

520-2331 滋賀県野洲市小篠原1971−2−906
山路興造
ky390613@ybb.ne.jp

2015年6月3日水曜日

名簿を更新

4回生のホームページ上にある名簿の内容を更新しました。

 2015-6-03
F組 等々力森雄君の住所を更新しました。

松濤中学4回生のためのホームページ
管理者 木下恂

2015年4月28日火曜日

名簿を更新

4回生のホームページ上にある名簿の内容を更新しました。

 2015-4-28
等々力森雄君の申請により、E組細木久慶君の住所を更新しました。

松濤中学4回生のためのホームページ
管理者 木下恂

2014年10月28日火曜日

若井田先生の思い出

    ━━ 新しい言葉との出会い        木下恂
 日本語の慣用句の使い方について、文化庁が行った世論調査の結果が発表された。それを紹介した新聞記事を読んでいると、私はいつも自分の無知と不勉強を(密かに)恥じていたものである。ところが、今年の発表の多くは自分の理解の方が正しくて、逆に若者達(多分)の新しい解釈に驚かされることの方が多かった。これは前回発表の後、私の国語力が急に向上したとは思えないから、若者の解釈が多様になってきたと考えるべきであろう。

 たとえば「煮詰まる」は、正しくは「議論や意見が出尽くして、結論が出る状態になる」ことであるが、最近は「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になる」という意味に解釈している人が4割近くいるという。しかも一部の辞書には、この両方の意味がともに載るようになったとのことである。

 言葉というものは時代とともにその意味が変化していくものらしい。新しい意味が追加されると、その分だけ言葉の表現力が豊かになったと言える。しかし正反対(*1)の意味が追加されることになれば、世代間で意味の解釈が異なることになり、場合によっては正確な意思疎通の妨げになる恐れもある。そうなると、もはやその言葉に利用価値はなくなるのではないかと私は危惧するのである。そういう厄介な言葉は使いたくないと思うだろう。
  【注】(*1) 正反対”という立派な言葉が存在するのに、最近「真逆」などという変な言葉が使われるようになった。私めには理解し難いことである。

 同じ言葉が正反対の意味になってしまうような“おかしな解釈”が頻繁に出現するようになった背景はある程度推察することができる。
 ここでは、自分の知らない“新しい言葉”に出会ったとき、我々はどのように対応しているか(あるいは対応してきたか)を考えてみよう。

 私が「新しい言葉」に出会うのは、主に読書を通じてである。本を読んでいて未知の言葉に出会うと、まず前後の文脈との関係からその意味を推測して自分の脳内辞書に登録する。意味が分からなければ辞書で調べることもあるが大抵はそのまま読み進むことになる。中学生時代に習った国語教師の若井田先生からは、本の文章から「生きた言葉」を学ぶように、と教えられた記憶がある。辞書に書かれた言葉は、いわば「死んだ言葉」であり、いろいろな意味が列記されていてもどのような文脈で使われるのかは分からない。それに対し本の中で出会った場合は、前後の文脈を繰り返し読んでその意味を推測することができる。前後の文脈とともに覚えた「生きた言葉」を学ぶことの重要性を教えられたのである。更に、本の中で使われた言葉であるから、当然正しい使われ方をしていることが保証されていると思ってよい。

 ところが、最近の若者達(多分)は本を読まない世代であると言われているから、おそらく会話を通じて、あるいはネット上の文書の中で新しい言葉に出会うのであろう。会話の場合は、録音でもしない限り前後の文脈はすぐ忘れ去られ反芻できない。そうなると前後の文脈とは無関係に、その言葉だけから意味を推察しなければならない。漢字表現も同音異義語にすり替わってしまう可能性がある。その会話の中で正しく使われたという保証もない。間違って使われた場合は間違って覚えてしまう可能性が高くなる。ネット上の文書では正しく使われているかは全く保証の限りではない。結局、「死んだ言葉」ばかりを自己流で学んでいることになるのではないかと思う。こういうステップを踏んで覚えた言葉から“おかしな解釈”が生まれてくるのではあるまいか。

 新しい言葉の意味を辞書類で調べるのは、この文脈からの推察を行った後にすべきであろう。そうすれば、更に広い活用法が見つかり語彙を増やすことができるかもしれない。■

2014年6月6日金曜日

松濤中学校

木下様

宏さんの事ご連絡していたようですね。思いもしない急逝で動転してしまいどな
たにご連絡したのかも定かでなく混乱しておりました。

家に引きこもり涙に暮れる毎日でしたが心身共にこのままではいけない、と社会
に接する時間に切り替えこれからますます必要になった英語クラスに通 い始め
ました。クラスでは最長年齢ですが勉強は生涯ですから若い人達に混じって励ん
でいます。

さて、松濤には2000年4月8日に渋谷の「忠犬ハチ公まつり」を通って松濤
中学校に行き、桜と校舎の写真を撮りました。鍋島公園も見事な桜で暫 く座っ
て景色を堪能しました。渋谷の駅近くは混雑ですが松濤の住宅街は別世界のよう
に閑静で落ち着きました。

2002年12月13日に佐賀県神埼町にある「佐賀県史跡・伊東玄朴旧宅」に
県庁職員の方が案内して下さり宏さんの4代前の先祖の生家を見せて頂 き写真
も沢山撮りました。長崎で西洋医学をシーボルトから学び江戸に渡り日本で始め
て種痘をし多くの命を助け、のちに将軍の筆頭従医となりまし た。明治時代に
入り学制が敷かれた際玄朴の医学所や医療器具が全て政府に寄贈され、それが現
在の東京大学医学部になりました。1880年に生まれ た家が県の史跡として
その当時のまま維持されていますのでもしご興味のある方がいらしたら、神埼の
小山の中腹で眺望も良く季節の花も綺麗です。頂 上に神社があり神主が玄朴の
親族だったそうです。

伊東静子